これは
岩手大学総合情報処理センター報告 ΣSIGMA 1の原稿です。
岩手大学の情報処理センターが総合情報処理センターになるまでの苦労話を書くよう
ようにという原稿依頼がありました。
暑い夏、毎週のように学会に発表するための準備もしないといけない。
というわけでぼつぼつ整理しながら書いていくのがよいかなと思い、まず書き出します。
なお、SIGMA 7には岩手大学のインターネット構築の歴史を簡単にまとめて書きました。
今回は特に私だけが知っている秘話ともいうものを、あまり回りに影響を与えない
範囲で書いてみたいと思います。
6000字程度(A4 4枚)  38字*40行=1520字
締切期限 9月14日
原稿にFD(テキスト形式)を添えて提出

この原稿を書いてから、学長の文章を読んだら、岩手大学では
学部自治が強すぎて、4学部の合意がとれないと全学共通施設の設置が遅れる傾向
となっている。その例としていくつかの全学共通施設のうちの総合情報処理センター
の実現も遅れたことが紹介されてあった。
私が努力した情報処理センターから総合情報処理センターに移行する前提条件と
しての情報処理センターの専任教官の学内定員化も、船越前学長の任期の最後
にやっと実現したわけで、総合情報処理センターができたのはそれから更に6年後
の現海妻学長の任期の最後の年なのであった。
あのとき学長室と4学部長室を何度も回った苦労を改めてかみしめています。
(岩手大学通報 No.434 平成13年10月号)

総合情報処理センター設置までの苦労話                工学部建設環境工学科 宮 本   裕  私が情報処理センター長を勤めたのは、平成2(1990)年4月から平成8(1996)年3月 までの6年間でした。ふりかえってみると情報処理センターをはじめ大学全体が情報処理 をとりまく環境の急変にあたたっため、自分の力を越えるような問題がいくつかありまし た。そして、皆様の協力のもとに納得できる仕事をすることができました。この度、総合 情報処理センターから当時のことを文章にまとめるようにとの依頼を受けました。せっか くの機会ですから、ここに報告したいと思います。自分ですら数年前のことを忘れたり間 違えて記憶しているから、他の人ならなおのこと、当時の情報処理センターがどのように 発展していったのかを知らない人がかなりいると思われます。大学の歴史をふりかえると き、できるだけ関係者が正確な記録を残しておくことは大切なことだと考えますから。  現在はインターネットが普通に使われるようになって、これがあたりまえと思っている 人が多いようです。しかし実は、この便利なインターネットが関係者の血のにじむような 苦労の上に作られたのです。そのことを書きとめておいたほうがよいと考え、以前にシグ マ7に原稿を書きました。したがって、インターネット誕生までのくわしい歴史はそちら にゆずりますが、情報処理センターが総合情報処理センターに格上げする条件整備として インターネットの整備拡充とその活用発展は欠かせないことですから、改めてここでふれ ることにします。それと、何といっても情報処理センターに選任教官を学内で用意するこ とが、文部省から要求された総合情報処理センター化の必要条件であり、この課題が私を しばらく苦しめたので、それらの思い出を中心としてこの原稿をまとめたいと思います。 ○センター長以前の思い出話 大学院生のときは大型計算機センターの利用者であった私が、この大学に赴任した時ここ には紙テープでプログラムやデータを入力する計算機(F231)があった。計算機環境 が数世代前に戻され、しかも研究体制も学内委員会の体制にも不満を感じていた私は、当 時工学部からのもう一人の委員である三浦先生(私の次の情報処理センター長)と新シス テム導入の概算要求の仕事に向かった。そのとき、計算機のことがよくわからないのに義 務的に各学部から選出された委員では任務が果たせないと考えて、専門委員なる制度を提 案したのだった。そんな委員は必要がないという委員もいて激論となったが、概算要求書 を作るには専門的知識が必要だし、各学部から補強の委員を集めるのもメリットがあると いうことになり、ついには評議会に認められ、専門委員ができた。できてみるとこの専門 委員は便利だということになって他の委員会にも続々作られるようになった。そして、本 当の委員よりも専門委員に重い仕事が委託されるようになり、提案者の私自身でさえ行き 過ぎではないかと思うケースも出てきた。(たとえば入学試験選抜検討委員会では、各種 の統計解析を専門委員に各委員が思いつきで頼むものだから、当の専門委員のK教授は、 統計を各委員が自分で勉強して試しにやってみたらどうかなど怒りの口調で述べていた) もうひとつの思い出は、初代情報処理センター長の佐藤淳先生の時だったが、学内LAN を整備するにあたって、各学部からの要望をまとめて納入業者と契約をした後であった。 工学部の某学科から、回線の増強の要望が出たのだ。実は教授会でも委員のY先生が何度 も説明したし、もう一人の委員の私も各学科を回って、回線の重要なことを何度も説明し たのだが、計算機を使うための回線であろうから、研究に電子計算機を使わない先生は必 要がないであろう。経費も自己負担分もあるから。そう考える先生も少なくなかった。し かし、電子メールという便利なものが使えそれが研究者としての常識の時代がすぐ来るで あろうし、今いる先生が他の大学に転勤して(あるいは退職して)新しい先生が来たとき、 自分の部屋に回線設備が用意されていないことを知ったらどう思うか。そういうことが具 体的な話題になったのであろう。ここで遅れては将来に悔いを残す。そう思ったのだが契 約は済んでしまって時既に遅し。私は他の学部でも同様な動きのあることを知って、セン ター長の佐藤先生に何とかならないだろうかと頼んでみた。佐藤先生は将来の大事なこと であるから、大学の発展のために、契約の終わったH社にかけあってくれた。そして、H 社の好意で何とか遅れて出された要望は受け入れられた。しかし、まだ問題は残っていた。 大学の施設がもうケーブル埋設工事の会社と契約を終えていて、後から出た利用者の要望 を取り入れるためには、施設課の仕事が増えるから彼らはとても感情を害したと思う。私 が行っても施設課長は会ってくれないのだ。そのとき、辞めたY委員の後に委員になった S先生は、私に「困りましたね。でも、私はあの課長とは工業高校時代の同級生だから、 なんとか頼んでみます」と言ったのだった。はたして、S先生の努力で学内LANは新し い案が実施され多くの利用者のニーズに応えることができた。あの親切なS先生は、東北 大学で博士号をとられた後、体を悪くされ、数年後に亡くなられたのだ。この情報処理セ ンター運営委員がS先生にとって大学に貢献した最後の仕事であったと私は思っている。 ○インターネット時代 米国国防総省高等研究計画局のARPANETプロジェクト(1969)、米国大学院生が作った 貧乏人のARPANET(バケツリレー)からできた草の根BBS(1977)、インターネット分散処 理(1983)など、海の向こうのできごとはしだいに世界に利用者の輪をひろげて、日本にも しのびよってきた。それはいつも時代を先取りする開拓者や若い研究者から、少しずつ広 まってきた。私が東北大学大型計算機運営委員のとき、長く運営委員を務めた桂重俊教授 の退官講演が大型計算機センターの講堂で行われた。桂先生がそこで外国の研究者からの 電子メールの届く様子を我々に見せてくれた。こんな趣味の世界が何の役に立つのだろう と思った人は、それから激しい勢いではじまるインターネットの世界を予想できなかった 人である。やがて日本も学術情報センター経由で国立大学の研究者は電子メールが使える ようになる。しかし、このためには、岩手大学のユーザは一旦は岩手大学情報処理センタ ーに接続してから改めて東北大学大型計算機センターに接続して、さらに東北大学大型計 算機センターから学術情報センターに接続することを手動操作でしなければならなかっ た。今でいうインターネット回線の整備が不十分であったからだ。そのような時代背景の ときセンター長となった私は、外から岩手大学に赴任して来られた若い先生方が国際会議 や国際雑誌に論文を投稿するために電子メールを簡単に使えるようにしてほしいという声 に真面目に応えないといけないと思った。 ○インターネットまでの苦労 なんとか自前でインターネットを作りたいという若い教官からの動きがあったが、平成4 年春に設置された新システムは機器の入れ替えのみである。新設ノードはシステム更新予 算でまかなえたが、各部局の建物内に引くイーサーネットは予算に入っていないので、イ ーサネットの工事費などは学部で負担しなければならなかった。各学部とも自分の学部予 算でそれぞれ各建物の一部に配線をした。工学部の場合も百数十万円くらいかかったし、 農学部も同じくらい出費があったはずである。工学部長になられた(前情報処理センター 長)佐藤淳先生にお願いして、なんとか予算をとっていただけることになった。そして、 ある雪の降る日に農学部のO教授やH先生を訪ね、工学部と一緒に農学部にもネットワー クを張ることを強く説得した。こうして、2つの大きな学部がネットワークの自助努力を したので、他の学部もそれぞれ予算を苦労して集め一部のネットワークを設置し、学内 LANがなんとか形成されることになった。だが学内のネットワークはできたが、学外の インターネット網につなげないとインターネットとして使えない。試験的に岩手大学? 東北大学を64Kbps(26万円/月)の専用線を利用することにして、予算も確保した。と ころが、インターネットを使うためには世界に1つのユニークな住所がないと世界中から の電子メールが届かない。IPアドレスとドメイン名が必要である。私は東北大学電気通 信研究所亀山先生の所に行ってIPアドレスとドメイン名の取得を依頼したら、ドメイン 名は時間の経過とともに取得できた。ところがなかなかIPアドレスが得られない。(これ は中央でインターネット世話人の団体が管理していて、東北大学関係者はその世話人に本 学の件を伝えただけであったから)結局は毎年東京で集まる全国国立大学情報処理センタ ー連絡協議会で世話人の先生に会って直接お願いしたら、1週間もかからないうちに岩手 大学に知らせが届いた。この全国国立大学情報処理センター連絡協議会は文部省からも参 加があり、耳寄りな情報が得られるので、毎年私の他どなたか運営委員の先生も一緒に出 席してきた。だが、旅費は支給されず、結局は自費出張となったので、一緒に出席される 先生にはお気の毒であった。 ○そして本格的インターネット実現  こうして細々と自助努力によるインターネットへの道を歩き始めたとき、風向きが変わ った。つまり、文部省が全国の国立大学をインターネット化しようと考えたのであった。 平成5(1993)年4月の工学部教授会のとき、突然私と阿部先生が本部に呼び出された。 文部省から、岩手大学にインターネット対応の設備の予算を付けたいが岩手大学は意志が あるか、また学内の準備体制はどうかというものであった。それまでの自前のインターネ ットという実績もあり、そのインターネットを改良すべくかねてから資料を集めていた阿 部先生は、精力的に活躍されすばらしいインターネットが実現したのであった。ここに特 筆すべきは、阿部先生のアイデアでマルチメディア構想をうたい、学内LANが実現した 時、電話交換機も新しくしたのだった。その結果、(それまで電話回線の余裕がなくでき なかった)農学部の研究室にも念願のFAXが付けられ、新しい教官がいくら増えても電 話は確保されるようになった。学内の電話回線は飛躍的に増え、電話の性能も良くなり、 市外電話も国際電話さえもダイヤル直通となった。基幹LAN仕様策定準備委員会をはじ め各種の作業グループの会議が開催され、私も毎日のようにおつきあいしたものだった。 その結果、電子メールくらいは使えないといけないと思い、私も苦労して覚えながらネッ トワークの委員会をはじめいくつかの委員会にメーリングリスト(ML)を取り入れ、体 験しながらインターネットのことを勉強していった。ネットワークの技術的なことを専門 的立場で支援してくれた鈴木先生もその研究室の教授である阿部先生も、考えてみると私 があの退官講演を聞きに行った東北大学大型計算機センター運営委員の桂先生の教え子で あった。他にも東北大学の研究の流れである若い先生方が、岩手大学に来られてインター ネットを整備し利用拡大開発に努めたのであった。インターネットの意義を知っているか ら、研究をしながら暇をさいて、できるだけ協力してくれた学内の教官たちを評価したい。  ふりかえったとき、私のセンター長時代はまさしく人材に恵まれた時期だったと思う。 インターネットの要望が徐々に高まって、その声は次第に大きくなり、学内の管理する側 に届けられ、インターネットの必要性が確実に大学構成員に認識されていった時に、技術 支援をしてくれる優秀な研究者が新しく本学の教官となって採用され、それらの人的資源 を活用できたことも良い思い出となった。大学の厳しい時代を迎えるが、岩手大学の人材 は豊富なので、これを有機的にまとめ力を十分に発揮できるなら一層の発展が期待される ことを信じている。 ○東北大学とのIP接続 いよいよインターネットが実現する段になって、文部省から盛岡仙台間の回線費用よりは 盛岡弘前間の回線費用の方が近距離のため安いから、東北大学と接続しないで弘前大学と の間に接続するように指導があった。それまでの試験的運用は東北大学とのIP接続であ ったが、若い教官を中心に、回線障害時の対応などを考えたら弘前大学との接続ではなく、 東北大学との接続をめざそうということになり、事務担当者とねばり強く打ち合わせをし た。事務担当者が文部省に説明するために、同様のケースで他の大学が必ずしも近距離の 回線ルートを使わない例を探すことにした。このときも先の述べた毎年開催される全国国 立大学情報処理センター連絡協議会の世話人の山梨大学のH教授に相談したら、九州と関 東に同様の例があることを教えていただき、我々の東北大学とのIP接続を応援してくだ さった。その結果、時間はかかったが無事仙台とIP接続することができた。 ○岩手県内のインターネット(対外接続) 岩手医科大学の学長から岩手大学との間にIP接続の申し込みがあった。そうこうしてい るうちに県の工業技術センターとの間にIP接続の申し込みがあった。国立大学どうしや、 国立研究機関との間の接続であれば問題ないが、私立大学や公立機関との間のIP接続は 支払い区分の件で会計検査をクリアしなければならず、大学当局は難色を示した。が、そ もそもインターネットの精神は相互補助のバケツリレー方式で、デジタルデータをとにか く隣まで転送することである。その転送費だけインターネットに参加しているメンバーが 自分で払うのだから、もともと電話料金の制度などとはあわないものである。インターネ ットは特別な制度なのであるが、大学の会計を預かる立場としては、会計検査に説明は重 要であった。この岩手医科大学および県工業技術センターとのIP接続の申し込みは一時 棚上げとなった。私にとっては辛い毎日が続いた。この件はすばらしいアイデアを授けて くれた教育学部のS教授のおかげで、事務当局もゴーサインを出して無事岩手県内のいく つかの機関と対外接続をすることができた。 ○総合情報処理センターへの道 情報処理センターが学内の教職員や学生のために、あらゆるインターネットのサービス を世話することをめざしても、限られた予算と定員では限界がある。総合情報処理センタ ーに格上げして、予算も倍増され定員も飛躍的に増え、その結果学内サービスも格段にア ップする。そのために総合情報処理センターの概算要求が宿題であった。だが、その道は 険しかった。まず、学内体制としてセンターに専任教官を学内措置として配置することが 必要であった。しかし、定員削減にあえぎ、どの学部も定員を提供することに喜んで協力 する学部はなかった。4つの学部があるのだから各学部で1/4ずつ定員を提供すれば1 人の専任教官が置けるのであるが。やがて構想は具体的となり、助手か教務員か技官のい ずれかを各学部から1名ずつ用意することが目標となった。この定員の問題は私を毎年悩 ませた。無理だろうとは思いながらも、運営委員会の決議を背にして何度も学長室にお願 いに行ったものだった。そして、あの温厚な船越学長もついには私の顔を見るなり、「先 生の言いたいことはわかっています。私は忙しいのです。お帰りください」と言われたも のだった。でも、諦めないで通った私は学長と同じ6年目の任期の時、ついに学長も各学 部長の合意が得られたら、専任教官の実現に協力しようと言ったのだった。 かねてから 何度も各学部長の部屋を回っていた私は、再び学部長の部屋を回るようになった。工学部 や農学部からは特に反対はなかった。大学の発展のためにはやむを得ないだろうというの が、学部長をはじめその学部の構成員の考えるところであったと思う。残りの学部も、イ ンターネットを積極的に利用する若い教官を中心に、総合情報処理センターに格上げして 専任教官を確保しないと大事なインターネットの維持管理に支障をきたすし、大学の発展 のためにはうつべき積極策はうっておかないと将来に悔いを残すという雰囲気が見えてき た。しかし、学部の教授会として積極的な決議がないと学部長は動けないのだ。そう言わ れて、では誰を個人的に説得したらよいかということを聞き出して、その先生の所にも行 ったものだった。それぞれの立場があるから、個人の客観的な判断と組織を世話する立場 との間の葛藤もあったのであろう。ともかくもそういう努力が実を結び、晴れてセンター に専任教官の定員は認められ、早速人選に入ったのは平成7(1995)の夏だった。  以上とりとめもなく書いてきた総合情報処理センターまでの道ですが、私の記憶の誤り やぬけている部分もあるかと思います。依頼された原稿に個人的な思い出を書きすぎたか もしれません。岩手大学に職を得てから30年がすぎてしまいましたが、はじめからずっ と計算機とのかかわりあいのあった私の歴史でした。コンピュータは数値解析の研究の道 具だったのに、インターネット時代となり、電子メールで世界との連絡に使い(元留学生 との連絡等)情報を集めたり情報を発信したり、はたまた教育活動にも利用しています。  これからのますますの総合情報処理センターの発展を期待して結びといたします。 参考文献 宮本 裕:「コンピュータ通信」、Σ第5号 宮本 裕:「岩手大学にインターネットが実現するまでの歴史」、Σ第7号

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