ドイツ的分裂の記録
ヴィクトール・クレンペラーの日記

仏文学者で著述家のヴイクトール・クレンペラーが56年10
月、東ベルリンで75歳の誕生日を迎えたとき、西ドイツ
の日刊新聞『ディ・ヴェルト』は、彼について容赦なくこう書
いている。「若い学生は彼の著作を読まないし、中年の学者も
もう彼は御用済みだという態度をとっている。西ドイツの研究
者が彼の本を読もうとしても、どこを探しても見つかりはしな
い」。そんな調子だから、ほぼ4年後の彼の死についてもごく
小さく報じられたにすぎない。

 ヴィクトール・クレンペラー
――冷戦の犠牲者ともいえるこの人は、西ドイツでは共産主義
のしもべと非難され、東ドイツでは頭から反全体主義者、労働
階級の盟友ということにされてしまっていた。ところが、現在
はどうか。今日のクレンペラーは、死後に刊行された日記のお
陰で文学界のスーパースターであり、そのうえ文化面の輸出の
目玉でさえある。

というのは、最近あるアメリカの大手出版社
が、ヒトラー時代に書かれた彼の日記の著作権を50万ドルで
買い取ったからだ。日記は数巻からなる大部なもので、けっして
安くはないのに、ドイツではすでに数十万部も売れており、これ
を朗読したカセットの売れゆきも好調。 13回シリーズの大型テレ
ビ映画化も目下進行中だそうだ。彼の名誉を称える朗読会が各地
で頻繁に催され、批評家は彼の業績を褒め称え「世紀の年代記作
者」との折り紙もつけられる、というありさまである。

事実クレンベラーは、ドイツの分裂性とドイツの破滅の記
録係であったし、皇帝時代から第二次世界大戦後の国土
の二分に至る時代までのドイツの矛盾の見本のような人であっ
た。そのうえ彼は、ユダヤ人であると同時にドイツ人でもある
という重い運命を担ってもいた。

クレンペラーは、1881年、
改革派ラビの8人目の子供としてヴァルテ河畔の町ラントベル
クに生まれた。新教を信奉していたし、ユダヤ人では将校にも
正教授にもなれないため、1912年に彼は新教に改宗した。第
一次大戦には将校として参加し、大学では教授の職を得てフラ
ンス文学の研究に専念した。モンテスキューの研究書2巻とフ
ランス文学史5巻などを著しているが、フランスはドイツの
「宿敵」であるとの考えを頑として持ち続ける。ナチスはこう
した彼を当初、国民の「啓蒙者」と祭り上げたが、一方ではこ
の独裁政治によって彼はまた否応もなくユダヤ人になっていっ
た。

『LTI Lingua Tertii Imperii(第三帝国の言語)』は、クレンペ
ラーのナチの恐怖政治に対する総決算ともいえる著述である。
この本は、47年にのちに東ドイツとなるソ連占領地区で出版
され、そのはるか20年後に西ドイツでも出版された。しかし、
クレンベラーはその後しばらくの間、自分でも東ドイツの言語
を話すようになり、例えばスターリンのことをアレキサンダー
大王、シーザー、ナポレオンと並ぶ偉人だ、などと語ったこと
もあった。

ヴィクトールというのは訳せば「勝利」という意味
である。しかしこのユダヤ系のドイツ人、ドイツ系のユダヤ人
は、生きている間に「勝者」であったためしはなかった。「私
は自分にも何かしら活動の余地があるのではという望みを完全に
失ってしまった。私は孤独な文芸評論家として生き、そして死ん
でいく」。すでにかなり前から“徹底した反共産主義者“となっ
ていたクレンベラーは、死の数カ月前にこう書き残している。

ヴィクトール・クレンペラーが、死後だいぶたってから勝
利を手にすることができたのは、ドイツ再統一、そして
彼が16歳のころから綿々と書き続けてきたじつに2万ページ
にも及ぶ日記のお陰であった。日記は旧東ドイツ時代にはザク
セン州立図書館に眠っていたのだが、つい数週間前からそれら
は立派な書物に姿を変えて市場に出ているのだ。

「私は、あら
ゆるものの板挟みになっている」――これが45年から59年ま
での日記を収めた巻のタイトルだが、この当時の彼の状況はま
さにこの通りであった。

一方、18年から32年までの日記をま
とめた巻のタイトルは、「何故、何のためにと問うことなく、
ひたすら人生を記録する」。 この巻を読むと、著者がけっして
ワイマール共和国に共感していたのではないことが分かる。 ク
レンベラーはもともと共和主義者ではなかったし、このころ反
ユダヤ主義が強まらなかったならば、威勢のいいドイツ人愛国
主義者となることこそが彼の望みだったのだ。

 クレンペラーの
日記全集の刊行が始まったのは4年前である,その最初の巻の
キャッチフレーズになったのが、「私は最後の最後まで証人で
あり続けたい」というナチ時代の彼の密かな書き込みであった。
この文章にはセンセーショナルな効果があり、読んだ多くの読
者はこの時代の人々の生活に関する知識と認識を広げ、また鋭
くすることができたのである。

クレンペラーは教授のポスト、
家、国民としての権利など、ほとんどすべてを失った。 42年6
月2日の日記に彼が絶望に駆られて列挙した、3lもの法的に認
められた嫌がらせのなかには、なんと「花を買ってはならない」
というものまであるのだ。

強制収容所行きをなんとか免れたの
は、ユダヤ人ではない妻のエヴァの働きによる。彼女は毎週毎
週、ドレスデン郊外に住む女友達のもとヘクレンペラーの日記
を運んだ。日記は無事に残り、活字になった…。そして、ヴィ
クトール・クレンペラーの人生の記録は、これからずっとドイ
ツ現代史の中核的要素であり続けるのだ,

(Zeitschrift Deutschland  1999, No.3)

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